「広げよう友情と連帯の輪を!」とのスローガンの下に「大阪高校生集会」がはじめて開かれたのが高校3年生の秋1970年のことでした。
ちょうど70年安保の時で高校生の間にも社会問題への関心が大きく高まる中で開かれた集会でした。私はその運営にあたる事務局の一員として、在学する高校での生徒会活動から府的な範囲での活動に参加することになりました。
沖縄、部落問題などを学ぶなかで、私と日本共産党との出会いはまさに“自然”で“必然”そのものでもありました。
民青同盟への加盟、「赤旗」の購読、そして1971年の第11回日本共産党大会での「70年代のおそくない時期に民主連合政府を」との目標に胸おどらせて、高校3年生の秋に日本共産党員となりました。
1994年7月に開かれた20回党大会で、「60年代から70年代初頭の党の躍進を再びつくりあげよう」と呼びかけられ、それにむけての全党の努力が開始されている今、その当時に入党した一人として、入党の時の「わくわくするような」状況を再びつくりあげる先頭に立たなければと決意を新たにしているところです。
75年大学を卒業し、小学校教員になるため産休代替教師として小学校につとめながら、通信教育で小学校教論免許をとりました。翌年に正規の採用を前にしているときに「日本共産党堺市議団事務局に」との要請をうけ、高校時代からの希望の教師になるか、要請に応え党の専従として活動するか悩んだ結果、党の要請に応え専従活動家の道を選びました。
社会変革の重要な活動である議会活動は「人民的議会主義」の立場からの日本共産党の重要な活動の柱となっており、議員団事務局の活動は日々新鮮な感動がありました。切実な住民の願いを議会でとりあげ実現を迫り、「赤旗」読者拡大で全党の牽引車として奮闘する先輩議員の姿に、これこそ党員や党支持者のみなさんが日夜を分かたぬ奮闘で獲得した党の議席の輝きだと感じたものでした。いま自分がその議員であることを思えば、多くの方々の奮闘と期待になんとしてもこたえなければならないと責任の重大さを痛感しないわけにはいきません。
5期20年間のうち18年を文教委員として教育問題を中心に担当してきましたが、この間一貫して取り組んできたのは、全国的に最低の行政施策となっている学童保育の問題です。
私自身も共働きのためその必要性は身にしみています。公立保育が廃止されて以来、指導員や父母らのたいへんな苦労と努力で「子どもたちに豊かな放課後を」「一つのクラブもつぶさない」と学童保育運動連絡会をはじめとした運動がたいへんな苦労とともに続けられてきました。その願いをうけて毎議会でこの問題をとりあげ市当局の理不尽な姿勢を追及してきました。行政の責任ある施策を確立させる粘り強い運動が、保護者・指導員をはじめ、堺の民主団体の共通の課題として展開され、今日に至っています。
| 経 歴 |
1952(昭和27)年大阪市生まれ/71年18歳で日本共産党に入党/桃山学院大学経済学部卒業/小学校教員/党堺市会議員団事務局長/'83年市議会議員初当選、以後3期連続当選/保育所・学童保育の役員、ゴルフ場開発をストップさせ、自然を守る運動に参加、中もず駅改善にとりくむ、文教委員18年/03年府会議員に初当選、文教委員、健康福祉常任委員長/07年府会選挙で惜敗 〈趣味〉映画鑑賞、合唱(ベートーベン「第九」を歌う) 〈家族〉妻(障害児学校教論)、長男(愛知県在住)、次男 |